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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アメリカ史(下) 超大国

2005/09/25
アメリカの歴史(9) 東西冷戦と「黄金時代」

 1945年9月2日の日本降伏で、人類史上最大規模にして最大の被害をもたらした第二次世界大戦は終結した。第33代トルーマン大統領は大量の兵士の社会復帰と軍需産業の民生転換を推進する。軍需によって巨大に成長し、また戦争の被害を受けなかったアメリカ産業は空前の大量生産体制を実現しており、アメリカ国民の生活は物質的に類の無い豊かさを得ることになる。またかつての孤立主義を捨て、IMF(国際通貨基金、1947年)とGATT(関税と貿易に関する一般協定、1948年)を基礎として、世界の資本主義国の指導的立場に立った。
 しかし第二次世界大戦はアメリカ単独の力で勝利したわけではなかった。特にドイツと死闘を繰り広げた共産主義国家・ソヴィエト連邦の指導者ヨシフ・スターリンは貪欲に「勝利の分け前」を要求した。早くも1946年3月には訪米中の前イギリス首相ウィンストン・チャーチルが「鉄のカーテン」演説を行い、東西冷戦の到来を予言した。ソ連は東欧諸国を支配下に置き、大戦中に侵攻したイランからも撤退しようとせず(新たに設立された国際連合の決議により1946年に撤退)、西側諸国の不信を招いた。
 ソ連の拡張主義に対して1947年3月、トルーマンは「トルーマン・ドクトリン」を発表してソ連に対抗した支援を表明、ソ連の圧力にさらされているギリシャやトルコを援助した。さらに戦争で荒廃したヨーロッパ諸国や発展途上国に対する無償・低金利援助であるマーシャル・プランを提案する。これに対してソ連は東欧諸国に援助受け入れ拒否を強要し、ヨーロッパを分断する東西冷戦体制はここに固まった(結局16ヶ国が170億ドルの支援を受けた)。1948年にはソ連が西ベルリンを封鎖、緊張は一気に高まった。翌1949年にはアメリカや西欧諸国が集団安全保障体制である北大西洋条約機構(NATO)を設立、さらにドイツのうち米英仏占領区域に西ドイツを建国させる。ソ連は東ドイツを建国させ、さらに東欧諸国と共にワルシャワ条約機構を設立(1955年)してこれに対抗する。

 ヨーロッパでは「冷戦」に留まっていたが、日本が敗れたのちの東アジアではさらに過激となった。日本占領ではソ連の排除にほぼ成功したが、日本の属領だった朝鮮半島は米ソによる南北分割占領となり、また中国ではアメリカの支援する国民党(蒋介石)とソ連の支援する共産党(毛沢東)の内戦になり、1949年に国民党は敗れて台湾に逃亡する。圧倒的だったはずの国民党の敗北、そしてアメリカが独占していた新兵器・原子爆弾の開発にソ連も同年に成功したことにアメリカ国民は衝撃を受け、国内に共産主義者に通じるスパイが居る、というヒステリックな恐怖感が醸成された。
 朝鮮半島では1948年に南北分断したまま建国宣言されたが、北の金日成は中国共産党の成功に刺激され、スターリンと毛沢東の許可を得て、南北統一を目指し1950年5月に南の韓国に侵攻する。冷戦はついに熱戦になった。アメリカはソ連不在(中国代表権をめぐり紛糾)の国連安保理で北朝鮮を侵略国と断定し、ただちに韓国に援軍を送った。中国も介入したこの朝鮮戦争は3年間続くことになり、アメリカ軍は3万6千の戦死者を出した。
 アメリカは軍事費を増額して軍備の再強化に着手し、1951年には日本とサンフランシスコ講和条約を締結して主権を回復させると共に安全保障条約を結んで自陣営の一員に加え、インドシナで共産ゲリラと戦うフランスを支援(1954年には戦費の82%を負担)、さらに台湾への軍事援助を強化して共産陣営の攻勢に対処した。またオーストラリアやニュージーランドと安全保障条約を結び、南米諸国と米州機構を設立して(1948年)、陣営を固めた。

 先鋭化する東西冷戦は国内にも影響を及ぼした。1947年にはトルーマンの拒否権行使にも関わらず、労働運動を制限し共産主義者の進出を食い止める目的のタフト・ハートレー法が成立する。1948年の大統領選挙ではトルーマンは労働者の権利保護、社会保障の充実、黒人公民権の向上などを柱とする「フェア・ディール」を公約に掲げ、前任者ルーズヴェルトのニューデュール政策を継承するものであることをアピールし辛勝した。しかし黒人の権利向上のいかなる試みも議会の抵抗に会い成功しなかった。
 1950年に「国務省内に共産主義者のスパイが居る」と演説したジョセフ・マッカーシー上院議員(共和党)は、「マッカーシズム」と呼ばれる激しい反共産主義者運動を引き起こした。トルーマンの意思に反して議会はマッカラン・ニクソン法などを可決して共産主義団体の取り締まりや移民制限を図った。また1950年にはキーフォーヴァー委員会が設置され、労働組合とマフィアの癒着が暴かれた。一方原爆開発計画に関わっていたジュリアス・ローゼンバーグとその妻エセルは、ソ連に機密を売り渡した容疑で逮捕され1953年に処刑されたが、アメリカ社会のヒステリー(反共・反ユダヤ主義)が招いた冤罪ではないかと言われている。
 朝鮮戦争が中国の参戦で行き詰まる中(「朝鮮特需」により景気は悪くなかった)、トルーマンの支持は急落し1952年の大統領選には出馬せず、共和党のドワイト・アイゼンハワー(元連合国・NATO軍最高司令官)が第34代大統領に当選した。

 アイゼンハワーは就任直後の1953年7月に朝鮮戦争を停戦しているが、韓国や台湾に対する軍事支援を強化し、またヴェトナムやラオスからの共産化の蔓延を防ぐため東南アジア条約機構を設立した。国務長官ジョン・ダレスの主張する共産主義との戦い、「新積極外交」である。一方で1956年のハンガリー動乱(ソ連によるハンガリー軍事介入)やスエズ危機(エジプトのスエズ運河国有化をめぐる紛争)には介入せず、後者では英仏を非難して経済的圧力により両軍を撤兵させている。しかし中東ではイランでのクーデタを支援してモサデク政権を崩壊させて親米的な皇帝パフレヴィーの独裁を樹立させ(1953年)、1957年にはレバノンに派兵、また同年アイゼンハワー・ドクトリンを発表して、軍事援助強化により親ソ勢力の伸張に対抗している。
 ソ連では1953年に独裁者スターリンが死去し、ニキータ・フルシチョフが権力を掌握した。これを受けダレスは次第にソ連との共存政策に転換し、1959年には副大統領リチャード・ニクソンがソ連を訪問、さらに同年フルシチョフが訪米し米ソ首脳会談が開かれ、冷戦の雪融けかと思われたが、翌年のソ連上空での米軍偵察機U2撃墜事件により再び米ソ関係は冷却化した。アメリカの軍事・経済支配に対する反感も強まり、1960年に南米諸国と日本を訪問したアイゼンハワーは反米デモを目の当たりにする。1959年にはアメリカの「裏庭」キューバで革命が起き、フィデル・カストロが親米独裁政権を倒し政権を樹立、アメリカにとっては痛手となった。
 アイゼンハワーの政策は外交に集中し、国内にはさほど関心が無かったといわれる。一つには好調なアメリカ経済もあって無関心で居られたとも言える。各家庭にテレビや自家用車、洗濯機が揃い物質的に世界で最も豊かなその社会は「黄金の50年代」とも、「The affluent society」(1958年にジョン・ガルブレイスが出版した本のタイトル)とも形容される。アイゼンハワーは1956年の大統領選挙で余裕の再選を果たした。
 マッカーシーの「反共十字軍」は1954年頃には下火になったが、同じ年、連邦最高裁判所は南部で行われている人種差別制度は違憲との判決を下した。具体的には公共バスでの座席分離などである。しかしこの判決に南部諸州は従おうとしなかった。1955年にはアラバマ州モンゴメリーで黒人によるバス・ボイコット運動が始まり(マーチン・ルーサー・キング牧師の指導)、1957年にはアーカンソー州リトルロックで白人と黒人の共学をめぐる騒乱に発展し、連邦軍が派遣される事態になった。連邦議会上院は同年に公民権法を可決し、黒人の選挙権を保障した。
 1957年10月、ソ連が人工衛星スプートニク号の打ち上げに成功し、科学技術の最先端を自負していたアメリカは衝撃を受けた。翌年NASAが設立され、また国防費が増額されて宇宙開発に拍車がかかることになる。しかしソ連は1961年には有人宇宙飛行にも成功し、アメリカは後れを取った。

 1960年の大統領選挙には、共和党のニクソン副大統領と民主党のジョン・フィッツジェラルド・ケネディ上院議員が立候補した。ケネディは労働組合とマフィアの癒着を追及したマクレラン委員会での活躍があったとはいえ、知名度でニクソンに及ばなかった。しかしこの選挙で初めて導入された候補者同士のテレビ討論でケネディは逆転し、薄氷の勝利を収めた。当時ケネディは43歳、史上最年少での当選であり、また35代目にして初のカトリック(アイルランド系)の大統領でもある。その選挙運動で彼は「ニューフロンティア精神」を掲げた。10年以内に人類を月面に送るという彼の決意はその一つとされた。
 就任早々の翌年4月、ケネディは大失敗を犯す。キューバのカストロ政権打倒を目指したCIA(米中央情報局)の指導を受けた亡命キューバ人による上陸作戦が行われ、大失敗に終わる(ピッグス湾事件)。さらに同年夏には分裂した東西ドイツ問題をめぐって米ソが対立、ソ連の指示を受けた東ドイツは8月13日に「ベルリンの壁」を建設して西ベルリンを包囲し、また自国民の西側逃亡を防ごうとした。この緊張を受けてケネディは予備役兵15万の動員と防衛費30億ドル増額を決定する。のち1963年6月に西ベルリンを訪問したケネディは「現在、自由世界において最も誇らしく言うことが出来る言葉、それは『私はベルリン市民である(Ich bin ein Berliner)』」と演説して自由世界防衛の意志を闡明し、西ドイツ国民を感激させた。
 翌1962年に事態はさらに先鋭化する。10月、米軍偵察機によりキューバに建設中のソ連の核ミサイル基地が発見された。アメリカはキューバを海上封鎖し、戦争の危機となった。すんでの所でケネディはフルシチョフにミサイル基地の撤去を申し入れ、キューバへの攻撃回避、トルコからの米軍ミサイル引き揚げと交換にソ連はキューバのミサイル基地建設を中止し、危機は辛うじて回避された。
 アジア・アフリカ諸国が次々と独立する中1961年に非同盟諸国会議が開かれ、米ソも注意を払う必要が生じていたが、このキューバ危機を機に米ソは対話に転じ、翌年8月には部分的核実験禁止条約が締結された(核兵器保持を目指すフランスと中国は不参加)。しかしフルシチョフは弱腰を理由に1964年に失脚させられる。
 1954年の最高裁判決にも関わらず南部では依然として黒人に対する差別的制度が残っていたため、ケネディ政権下でも黒人の公民権運動は盛り上がりを見せ、1963年には20万人が参加してワシントンで大規模なデモが行われた。ケネディは人種差別政策を続けるアラバマやアーカンソーの州知事と対決姿勢を見せ、また1963年6月には新しい公民権法案を提出している。
 キューバ危機は回避したものの、東南アジア情勢は緊迫の度を増していた。旧宗主国フランスが敗退した1954年にヴェトナムは南北に分裂して独立を勝ち取ったが、親米の南ヴェトナムは民心を得られず、統一を目指す北ヴェトナムの支援を受けた共産ゲリラ(ヴェトコン)によるテロ攻撃が頻発していた。アメリカは南ヴェトナムに1万6千人の軍事顧問団を派遣し軍事援助を行った。1963年11月にはアメリカの意を受けた軍部によるクーデターが起きゴ・ディン・ディエム政権が倒れたが、事態は好転しなかった。ケネディはヴェトナムからの米軍早期撤退を計画していたという。
 1963年11月22日、遊説のためテキサス州ダラスを訪問していたケネディは、オープンカーに乗っているところを狙撃され死亡した。即日副大統領のリンドン・ジョンソンが昇格して第36代大統領に就任した。この暗殺の背景には未だに不審な点が多く全容解明には程遠いが、少なくともこの暗殺によって「ケネディ伝説」が始まり、またヴェトナム戦争や公民権運動の激化によってアメリカ社会が騒然とし、暗転していく契機となった。「黄金時代」の終末であった。


 2005/12/27
アメリカの歴史(10) 揺らぐ超大国

 ケネディ暗殺によって第36代大統領に昇格した副大統領リンドン・ジョンソンは、若々しいケネディとは対照的な老練な政治家だったが、保守的な南部テキサス州出身ということもあって北東部のリベラル・インテリ層には人気が無かった。就任当初ジョンソンは前任者ケネディの政策を引き継いで、所得税引き下げや黒人公民権のための雇用機会均等法(1964年6月)などの成立に尽力した。
 1964年の大統領選挙を前に、ジョンソンは「偉大な社会」をスローガンに、貧困や差別の撲滅を内政目標として掲げた。対する共和党は超保守派(公民権法反対、労働組合運動の制限、社会保障の切り捨て、ヴェトナムやキューバに対する核兵器使用を主張)のバリー・ゴールドウォーター上院議員を候補とする。ジョンソンが大差で再選を果たすが、ゴールドウォーターは予想に反して4割近い得票を得て、南部や西部での保守主義の根強さを示すこととなる。これは同じ民主主義に根差した社会ながら、社会民主主義が優勢となっていくヨーロッパとの乖離を示すものと受け取られた。アメリカ政治の中心は伝統的な北部や東部から、ラテンアメリカやアジアからの移民(全移民の8割以上)流入で人口が急増する南部や西部に移ってゆき、その反動としての保守化でもあった。これはアメリカ経済が対欧州から日本を始めとするアジア、そしてアメリカの経済支配が行われていた中南米との関係に重心を移したことと軌を一にしている。
 当選したジョンソンは「偉大な社会」実現のための政策を次々に実行していく。老齢年金や社会保障制度の整備、出身国による移民制限差別法の撤廃、教育の充実、公害対策、都市住宅整備省の設置などである。都市整備省長官にはロバート・ウィーヴァーが指名されたが、彼はアメリカ史上最初の黒人の大臣となった。

 しかしこうしたジョンソンによる内政上のリベラルな政策は、彼のヴェトナム介入の前に霞んでしまうこととなった。実際のところ、アメリカ政府が1966年にヴェトナム戦争に費やした費用は、上記の貧困対策費の20倍に達していた。
 ヴェトナムでは南北統一を目指す社会主義国・北ヴェトナムが、親米軍事政権の支配する南ヴェトナム国内でのゲリラ活動(ヴェトコン)を支援していた。1964年8月、アメリカはトンキン湾で北ヴェトナム海軍の攻撃を受けたと主張、議会はほぼ全会一致決議で、必要な軍事的対抗措置を取る全権を大統領に付与した。のちに「北ヴェトナム軍による攻撃」はねつ造であったことが判明し、また弱腰を対立候補に攻撃されていたジョンソンがこの決議により「強い大統領」という姿勢を示す事が出来、その年末の大統領選挙に利した、と指摘されている。
 ジョンソンは1965年に北ヴェトナムに対する「北爆」を開始、ヴェトナム戦争に本格的介入を始める。アメリカ軍はヴェトナムに爆弾の雨を降らせ、1968年にはヴェトナムに派遣されたアメリカ軍は55万に達した。これはもはや単にヴェトナムの内戦ではなく、共産主義の拡大(「ドミノ理論」)に対するアメリカの戦いと位置付けられた。しかしヴェトコンや北ヴェトナムは、ソ連の支援を得つつ、ジャングルに潜むゲリラ戦術によって装備で勝るアメリカ軍に対抗する。
 テレビという情報媒体の普及によって、この密林での見えない敵に対する戦争は国民に克明に伝えられ、ゲリラ掃討と称してヴェトナムの村を焼き払うアメリカ軍の姿に、アメリカ国民は戦争の意味や正義に疑問を持つようになっていく。

 ジョンソンの施策にも関わらず貧困や黒人に対する差別は依然として続き、以前はその九割が南部に集中していた黒人がアメリカ全土の都市部(スラム)へ移住していたこともあって、単に南部の問題では済まなかった。毎年夏になると、恒例のように大都市では人種間対立による暴動が起きた。非暴力闘争や白人との融和を掲げるキング牧師とは対照的に、マルコムXは黒人優位を説く人種主義運動である「ブラック・パワー」運動を率い、1965年に彼が暗殺されたのちには「ブラック・パンサー」団による武装闘争にまで発展する。
 高等教育の充実により1960年代にアメリカの学生数は400万から800万と倍増したが、1964年にはカリフォルニア大学バークレー校でのフリー・スピーチ運動をきっかけに大学の官僚主義に対する紛争が始まり、ヴェトナム戦争拡大に伴う学生の徴兵猶予停止によって大学紛争は反戦・反人種差別運動と結びついた。1968年始めには100以上の大学で4万人以上の学生がデモに参加するまでになり、またヨーロッパや日本など全世界の大学に波及する。
 ジョンソンが公約した「偉大な社会」は実現にほど遠く、また彼の始めたヴェトナム戦争の行き詰まりでその是非が問われるや、ジョンソンへの支持率も急激に低下した。1968年3月、ジョンソンは不利を悟って次期大統領選挙への不出馬を宣言、人気のあった民主党のロバート・ケネディ候補暗殺事件もあって、その年11月の大統領選挙では共和党のリチャード・ニクソン候補(元副大統領)が辛勝した。

 1968年に北ヴェトナムとの交渉が始まっており、ニクソンは戦争を有利に終結することに苦慮したが、出口は見えなかった。国内では反戦運動が激化して1969年11月のワシントンにおける反戦集会には30万人が参加する。1970年4月、ヴェトコンの根拠地と目されたカンボジアにアメリカ軍が侵攻すると、いよいよ反戦運動は盛んになった。
 しかしオハイオ州立ケント大学での反戦デモに州兵が出動してデモ隊に発砲、4人の学生が死亡した事件を境として、平和的な大規模反戦運動は下火になっていき、「新左翼」は少数の過激派による暴力的な地下活動、もしくは婦人解放・環境保護運動へと移っていく。また労働者階級や「サイレント・マジョリティ」は、学生を中心とする反戦運動に対して右傾化していった。
 平和的運動によって戦争を終わらせることが出来ないという無力感は、ヒッピーや「フラワー・チルドレン」といった若者文化に表れた。こうした動きの背景には、1970年のポルノ禁止の完全撤廃、避妊薬の開発、堕胎禁止を憲法違反とする1973年の最高裁判決、離婚率の倍増、同性愛に対する禁忌意識の低下などに象徴される、社会通念の大きな変化があった。1969年7月21日、アメリカが人類初の月面着陸を成功させたことも、新しい時代の到来を感じさせた。

 ニクソン政権では、安全保障担当補佐官であるヘンリー・キッシンジャーが外交政策を担当した。共産主義陣営では1960年代始めにスターリン批判や中国の核兵器開発をめぐってソ連と中国が対立し国境紛争まで起きていたが、中国はソ連との対抗上、1971年に朝鮮戦争以来のアメリカとの敵対関係を終結し(同時に台湾に代わり国連代表権を得る)、1972年にはニクソンが訪中する。一方1968年の「プラハの春」に象徴される共産主義の行き詰まりから、核ミサイルを大量に配備して北極圏を挟んでアメリカと睨み合っていたソ連も西側との融和に転じ、米ソ間で核軍縮協定(SALT I)が調印された。かつて反共主義者として鳴らしたニクソンはソ連をも訪問し(1972年)、現実外交を推し進める。
 この緊張緩和の動きに乗ってニクソンはヴェトナム戦争の「ヴェトナム化」を進め、南ヴェトナム駐留米軍の規模を順次縮小、1972年には3万人にまで縮小した。1973年1月にはパリ和平協定が調印され、米軍はヴェトナムから完全撤退した。5万8千人の戦死者を出し、アメリカにとって史上最長の戦争だったヴェトナム戦争はここに終結した。東南アジアの小国に勝利を収められなかったアメリカは、超大国・「世界の警察官」としての威信と自信を打ち砕かれた。なおヴェトナムでは北ヴェトナム軍の侵攻により1975年に南北統一が実現する。
 ニクソンの融和外交は、1973年に起きた第四次中東戦争及びアラブ諸国による対西側石油禁輸(オイル・ショック)を機に中東にも及んだ。キッシンジャーの活躍で戦争を調停し、翌年にアラブ諸国との和解が成立して石油禁輸は解除されたが、以後アメリカはイギリスに代わって中東外交を主導することになる。一方南米ではアメリカの影響力維持に意を注ぎ、チリの民主的選挙で社会主義的なサルヴァドール・アジェンデ政権が誕生すると、アウグスト・ピノチェト将軍率いる軍部のクーデター(1973年9月)を支援、アジェンデ政権を崩壊させた。

 こうした外交的成果の一方、ニクソン政権の内政は安定しなかった。先鋭化する国内対立の中にあって、リベラル派からは保守的とされ、保守派からは基本的にジョンソン政権のそれを受け継いだ政策が批判された。経済的にも、日本や西ドイツなどの輸出攻勢によって貿易収支が1930年代以来の赤字に転落、1971年にはブレトン・ウッズ体制の破棄を宣言しドル為替を変動相場制に移行せざるを得なくなった。超大国アメリカの「世界の盟主」としての地位は、泥沼のヴェトナム戦争に象徴される政治的なものにとどまらず、経済的にも揺らぎ始めたのである。
 1972年の大統領選挙でニクソンは60%以上の得票を得る大勝で再選を果たしたが、その選挙期間中ニクソン陣営はウォーターゲイト・ビル内にある民主党本部を盗聴していた。選挙に勝ったもののニクソン政権は二期目当初からこのウォーターゲイト疑惑に揺れていた。裁判所がこの事件へのニクソンの関与を認め、また「ワシントン・ポスト」紙のボブ・ウッドワード記者らが情報提供者の協力で事件の詳細を報じるにつれ、ニクソンの立場は苦しくなった。共和党内でもニクソンを見放す動きが出て、1974年8月9日、ニクソンは史上初めて任期半ばにして大統領職を辞し、ヘリコプターでホワイトハウスを去った。高潔たるべき大統領の疑惑と辞任という異常事態は、アメリカの価値観の崩壊と、そしてメディアという「第四の権力」の力を見せつけることとなった。

 ニクソン辞任後、副大統領のジェラルド・フォードが昇格し第38代大統領に就任したが、失業問題や財政赤字問題に有効な対処も出来なかった彼はソ連との核軍縮協定以外さしたる成果もあげることなく、1976年の大統領選挙で敗れ去った。勝ったのは民主党候補でジョージア州知事、しかしほとんど無名だったジェイムズ(ジミー)・カーターだった。カーターは「ワシントンの政治風土に毒されていない、建国以来の質実なアメリカ的価値観」を売りにして辛勝した。
 カーターはその特徴を外交面でも強調し、人権重視を謳った。このためカーター政権はチリやアルゼンチン、エチオピア、南アフリカでの独裁や人種差別に対して厳しく臨んだが、一方でこの姿勢は親米陣営を揺るがすこととなり、例えば独裁政権下にある韓国やフィリピン、ニカラグアでの混乱や影響力低下を招くことになった。とりわけ痛手だったのは、1979年のイラン革命である。親米的な皇帝独裁政権は、ホメイニ師率いる民衆のイスラム革命によって打倒された。
 カーター外交の成功として挙げられるのは、一部のアフリカ諸国との接近、パナマとの良好な関係の樹立(アメリカが租借するパナマ運河の返還協定)、そして最大のものとしては1979年にアメリカの仲介で実現したイスラエル・エジプト和平がある。共産圏とは前政権以来の宥和外交を継続して1978年に中国との国交正常化を達成し、またソ連とは核軍縮協定(SALT II)の調印に漕ぎ付けたが、1979年末のソ連軍によるアフガニスタン侵攻で雪融けムードは一瞬にして吹き飛んでしまった。
 国内でも、1979年の第2次オイル・ショックによる1930年代以来の大不況や、日本の輸出攻勢による国内産業の不振と失業率上昇によってカーターの支持率はみるみる低下した。さらにテヘラン(イラン)でイスラム原理主義者が起こしたアメリカ大使館人質事件の武力解決にも大失敗して不人気は決定的となり、1980年の大統領選挙では共和党候補のロナルド・レーガン(カリフォルニア州知事)に大敗して一期でその地位を追われることになった。
 なおカーターは退任後も平和外交に活躍し、2002年にノーベル平和賞を受賞、「史上最強の『元』大統領」と呼ばれる。


2006/01/25
アメリカの歴史(11) 終わりなき戦い?

 1980年の大統領選挙では、共和党候補のロナルド・レーガンが選挙人の9割を得る地滑り的大勝で現職のカーターを破って当選し、翌年第40代大統領に就任した。映画俳優からカリフォルニア州知事という経歴を持ち、また就任時69歳の高齢という歴代大統領でも異例尽くめのレーガンには、ヴェトナム戦争やイラン革命で打ちのめされたアメリカの国際的威信の回復と、年々増大する貿易と財政の赤字是正が期待された。
 レーガンの圧勝はまた、中絶是認や離婚率の増大、同性愛やポルノ解禁などといった伝統的モラルの崩壊に対する保守層の反動という一面もあった。レーガンがカリフォルニアから出馬したことが示すように、アメリカ政治の重心は着実にリベラル層の多い北東部から「サンベルト」と呼ばれる南部や西部に移っており、それは西部の人口が1990年にニューイングランド諸州を初めて上回り、また80年代の人口増加の半分以上がカリフォルニア・テキサス・フロリダ3州に集中したことにも端的に現われている。

 内政でレーガンは「レーガノミックス」と呼ばれる経済政策を行い、景気回復のため所得税を25%軽減した。しかしこれは増大する破滅的な財政赤字を助長し、ついには60年代以来続いた社会福祉制度からの400億ドル削減に追いこまれた。環境保護政策などの経済統制はほとんど放棄され市場に任されたが、経済は好転せず失業率は増大、日本からの電機製品や自動車の輸入増大で1984年には貿易赤字がついに1000億ドルを突破した。レーガノミックスの恩恵に与れたのは人口のわずか2%、貧富の格差が増大した。レーガノミックスの評価は今も定まらない。
 1989年まで続くレーガン政権の期間、アメリカ国民に肥満者が増え、ジョギングや禁煙、自然食などの健康志向が大きくなる一方で、麻薬やエイズの蔓延が大きな社会問題になっていく。また一瞬にして大金を稼ぎ出す株のディーラーや経営者がもてはやされ(「ゲット・リッチ・クイック」)、婦人の6割が就業し、現代的な自己実現の姿とされたが、一方で離婚率が増大し家庭崩壊も問題になった。
 かつて差別されていた黒人は今や4割がホワイトカラーに属し、45%が自分の家を持つようになったものの、三分の一は依然として貧困層に属して希望も無いまま麻薬や重犯罪に手を染めていった。またこの頃から、黒人に加えて中南米からのヒスパニック系移民が急増した(80年代だけで350万人)。こうした全くの別世界が国内で並存する中、南部や西部ではキリスト教原理主義セクトの活動も無視できないものになりつつあった。

 レーガンはソヴィエト連邦を「悪の帝国」と呼び、通常兵力で勝るソ連に対抗してSDI(「スターウォーズ」)計画を発表するなど(1983年)、国防費を倍増し対決姿勢を明確にする。このアメリカが仕掛けた新たな軍拡競争の結果、既に限界に来ていたソ連の社会主義経済は最後の一撃を受けて破綻する。1983年には「アメリカの裏庭」カリブ海で、共産主義者がクーデターを起こしたグレナダに侵攻してこれを阻止している。また内戦中のレバノンに派兵(1982年)、また1980年にイラクによる侵攻で始まったイラン・イラク戦争では、イラク寄りの姿勢をとった。ソ連占領下にあるアフガニスタンでは、パキスタンを通じゲリラへの支援も行った。
 アメリカを「世界の警察官」の地位に戻そうとする彼の政策は、内政上の失点にもかかわらずレーガン政権に対して国民の大きな支持を集めることになった。1984年の大統領選挙ではレーガンは59%の得票で圧勝し、73歳という史上最高齢で再選した。なおこの選挙では黒人のジェシー・ジャクソンが民主党の大統領候補指名選挙で善戦して注目を集めた。
 レーガン政権の二期目は、中米ニカラグアやエルサルバドルでの内戦に絡むイランへの不正武器輸出疑惑(イラン・コントラ疑惑)で揺れた。しかしテロ活動への支援が疑われたリビアへの空爆(1986年)といった強硬姿勢、そして1987年にソ連の指導者として登場したミハイル・ゴルバチョフが東西冷戦での敗北を事実上認めて核軍縮を始めたことは、レーガン政権への国民の支持に繋がった。アメリカもヨーロッパから中距離ミサイルを撤収して世界平和への期待が高まる中の1989年始めにレーガンは退任するが(2004年没)、アメリカの威信を取り戻した偉大な大統領として評価されている。

 1988年の大統領選挙で当選したのは、レーガン政権の副大統領だったジョージ・ブッシュである。彼の任期初年である1989年は世界各地で大きな変動が起きた年となった。東欧諸国では共産党政権がドミノ倒しのように崩壊しソ連の支配を脱するが、その象徴的なものは11月9日、ドイツでの「ベルリンの壁」崩壊だった(翌年東西ドイツは統一)。前年イラクと停戦したイランではイスラム革命の指導者ホメイニ師が死去、中国では学生を中心とした民主化運動が起きるが武力鎮圧された(天安門事件)。この年12月、ブッシュはマルタ島でゴルバチョフと会談し、事実上の冷戦終結が宣言された。既にアフガニスタンからも撤兵し、東欧諸国も離反して超大国としての威信を失ったソ連は1991年には崩壊に至り、アメリカとの協調に転じざるを得なくなる。アメリカは「唯一の超大国」となったのである。
 激変する世界秩序の中、アメリカは再び平和・民主主義・自由貿易の守護者としての意識と自信をもっていく。その手始めは1989年末のパナマ侵攻で、同国の独裁者マヌエル・ノリエガ将軍を麻薬密売の罪で逮捕・連行し自国で裁いた。そしてさらに大規模になったのが、翌年8月のイラクによるクウェート侵攻・併合に始まる湾岸危機である。これは二極構造の下で一定の「平和」状態にしていた冷戦が終わった世界での、新たな複雑な紛争の火種を象徴するものとなった。アメリカは国連を利用しつつイラク包囲網の主力となって産油国サウジアラビアに大軍を派兵、翌年1月の空爆に始まる圧倒的勝利でクウェートを解放し、自らもヴェトナム戦争のトラウマから解放された。
 こうした外交上の成果の一方で、ブッシュ政権はレーガノミックスの残した財政赤字や内政問題に有効な手が打てず、国民の湾岸戦争勝利の興奮もすぐに冷め、1992年の大統領選挙では大富豪ロス・ペローという第三の独立候補の出現(得票19%)もあって、わずか43%の得票に過ぎなかった民主党のビル(ウィリアム)・クリントン候補(アーカンソー州知事)に苦杯をなめた。

 第42代クリントン大統領の政権運営は、議会での共和党優勢という中厳しいものとなり、またクリントン自らのスキャンダル(セクハラ訴訟、知事時代の不正、モニカ・ルインスキー事件)もあって議会に弾劾されるなど、度々窮地に立たされた。しかしアメリカが世界の最先端に立つIT産業(インターネットや携帯電話などの世界的普及)を中心とした折からの景気回復もあって、福祉制度改革による緊縮財政を行ったクリントン政権は、最大の課題である財政建て直しに一定の成功を収めた。メキシコやカナダと自由貿易協定を締結し、またGATTをWTO(世界貿易機構)に改編して経済のグローバリゼーションへの第一歩を踏み出し、80年代の好況から一転不景気に落ち込んだ日本やドイツなどに対しての経済的優位を決定付ける。景気回復にも後押しされて、クリントンは1996年の大統領選挙で再選を果たしている。
 クリントンは就任当初、国連のブトロス・ガリ事務総長が推進する積極平和外交に協力し、イスラエルとPLOの歴史的和解(1993年)を仲介するなどしたが、同年ソマリア内戦で平和維持軍に参加していた米兵が惨殺されると慌てて撤兵した。1994年には内政が混乱するカリブ海のハイチに侵攻、翌年ボスニア内戦の停戦協定(デイトン合意)を仲介している。さらに民族紛争の続く旧ユーゴスラヴィアでは、コソヴォ紛争に際して1999年には安保理常任理事国ロシアや中国が反対する中、国連決議の無いままNATO諸国と共にセルビアに対する空爆に踏み切った。東アジアでは経済成長著しい中国に対し、天安門事件以来の制裁を解除して接近し、また核開発による瀬戸際外交を進めた北朝鮮とジュネーヴ合意を締結している(のち北朝鮮により反古にされる)。ヴェトナムとの国交回復やキューバへの制裁一部緩和の一方で、テロ支援国家としてスーダンやアフガニスタンをミサイル攻撃したり、制裁下にあるイラクを度々爆撃するなど場当たり的な外交も見られた。
 クリントンは2001年に退任するが、二期8年に及んだその在任中よりもむしろ人気が上がっている。

 2000年の大統領選挙には、共和党からテキサス州知事のジョージ・ウォーカー・ブッシュ候補(先々代大統領の息子)、民主党からは現職副大統領であるアルバート・ゴアが立候補したが、史上例を見ない接戦となった。両党に争点がないことも原因であるが、開票作業を巡って裁判に訴える事態になった。結局共和党候補であるブッシュの当選が認められ、翌年第43代大統領に就任した。
 就任早々ブッシュ大統領は前任者の逆をいく決定を発表する。地球温暖化防止のため二酸化炭素排出削減を定めた京都議定書からの脱退、国際法廷設置協定の批准拒否、ミサイル防衛構想の発表などである。こうした一国単独主義に対する反感が各国から表明されたが、2001年9月11日にワシントンの国防省とニューヨークの世界貿易センターを標的とした同時多発テロ(死者三千人以上)が発生して状況は新たな局面に入った。
 アメリカは西側同盟国と協力してこのテロの首謀者とされたイスラム原理主義者オサマ・ビン・ラディンを匿っているとされるアフガニスタンに攻撃を加え、ターリバン政権を崩壊させる。ついでブッシュ大統領は2002年の年頭教書演説でイラク・イラン・北朝鮮を「悪の枢軸」と呼んで対決を表明し、1990年以来国連の制裁下にあるイラクが大量破壊兵器を秘匿しテロ組織を支援していると主張、反対の声が多く国連決議も得られない中、2003年3月にイラクに侵攻してサダム・フセイン政権を崩壊させ、彼を逮捕した。結局疑われたイラクの大量破壊兵器保有が無かったと判明すると、ブッシュは「アフガニスタンやイラクを圧制から解放し民主主義を樹立した」として正当化した。
 また「対テロ戦争」のために国土防衛省を新設すると共に、世界中に駐留する米軍を再編し機動性を高め、より武力行使が行いやすい体制の整備に努めている。ブッシュ政権は外交で民主主義と人権の拡大を目標に掲げたが、独自の大国志向をもちアメリカの一国単独主義を嫌う中国・ロシア・フランスとの関係が冷却化、そして南米の産油国ヴェネズエラや人権無視を非難されたジンバブエなどを反米化させた。内政は基本的に市場放任・自由貿易主義であり、イラクへの駐兵などによる放漫財政で財政赤字が増大している。
 他国に忌み嫌われたものの国内での支持率が比較的高かったブッシュ大統領は、2004年の大統領選挙で再任され政権は二期目に入った。テロが相次ぐイラクでの米軍死者は2000人を超え、また相次ぐカリブ海でのハリケーンでの甚大な被害でアメリカの抱える社会矛盾が浮き彫りになるや、ブッシュ政権の支持率は低落しつつある。


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